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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

タチュ (ジャライル部)

、アヤチは危うく捕らえかけられたが、タチュらの奮戦によってアヤチは遼河を渡って逃れることができた。この時、タチュは自ら前線に出て敵将のテグデイ(帖古歹)を射抜き、アヤチらの退却を助けたという。アヤチ軍が懿州に退却すると、城に残っていた老人子供らが「宣慰公(タチュ)がいなければ、我々の家族は生きて帰

คำที่เกี่ยวข้อง

タチュ (タングート部)

資政大夫・中書右丞、行中書省事。十五年、以二王事入議。帝命張弘範・李恒総兵進討、塔出留後、以供軍費。初江西甫定、帝命隳其城、塔出即表言『豫章諸郡皆瀕江為城、霖潦泛溢、無城必至墊溺、隳之不便』。帝従之。降附之初、有謀畔者、既敗獲矣、塔出謂同僚曰『撫治乖方之所致也、中間豈無詿誤』。止誅其渠魁、尽釈餘党

ナヤン (ジャライル部)

忽林池亦固譲、乃燕頓首涕泣力辞、不得命、既而曰『若然則王爵必不敢受、願代臣兄行軍国之事』。於是忽林池襲為国王、事無巨細、必与乃燕謀議、剖決精当、無所壅滞」 ^ 『元史』巻119列伝6乃燕伝,「世祖在潜藩、常与論事。乃燕敷陳大義、又明習典故。世祖謂左右曰『乃燕、後必可大用』。因号之曰薛禅、猶華言大賢

ドルジ (ジャライル部)

。杭之耆老請建生祠、如前丞相故事、朶児只辞之曰『昔者我父平章官浙省、我実生於此、宜爾父老有愛於我、我於爾杭人得無情乎。然今天下承平、我叨居相位於此、唯知謹守法度不辱先人足矣、何用虚名為』」 ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝,「七年、召拝御史大夫。会丞相虚位、秋、拝中書左丞相。冬、陞右丞相・監修国

アウルクチ (ジャライル部)

諭守臣張晏然。明日、晏然以城降。遷奥魯赤昭毅大将軍、諸郡望風而靡。分兵出獨松関、宋兵堅守、奥魯赤令将校益樹旗幟於山上、率精騎突之、守兵驚潰、棄関走、追逐百餘里、斬馘不可勝計」 松田孝一「河南淮北蒙古軍都万戸府考」『東洋学報』68号、1987年 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年

バアトル (ジャライル部)

そが首都として最も相応しかったためであると考えられている。 1259年(己未)、モンゴル軍はモンケ率いる本隊、五投下を率いるクビライ軍、東道諸王を総べるタガチャル軍の3軍に分かれ南宋に侵攻したが、四川方面で突出したモンケが遠征先で病死するという大事件が起こった。元々クビライは南宋の要衝の鄂州を攻囲

トゲ (ジャライル部)

字音写に従って、トンゲ(Töngge)とも表記される。 『元朝秘史』によると、1196年にチンギス・カンがジュルキン部を滅ぼした際、父のチラウン・カイチと弟のカシとともにチンギス・カンの下に帰参したという。 その後のトゲの事蹟は不明であるが、1206年にモンゴル帝国が建国された時には帝国の幹部層た

ソゲドゥ (ジャライル部)

『元史』巻129列伝16唆都伝,「至元五年、阿朮等兵囲襄陽、命唆都出巡邏、奪宋金剛台寨・筲基窩・青澗寨・大洪山・帰州洞諸隘。嘗猝遇宋兵千餘、持羈勒欲窃馬、唆都戦敗之、斬首三百級。六年、宋将范文虎率舟師駐灌子灘、丞相史天澤命唆都拒卻之。陞総管、分東平卒八百隷之。九年、攻樊城、唆都先登、城遂破。襄陽降、再与卒五千、賜弓矢・襲衣

パーディシャー (ジャライル部)

延祐二年、拜中書右丞相。時承平日久、朝廷清明、君臣端拱廟堂之上、而百姓乂安於下、一時号称極治。仁宗崩、帖木畳児執政、改授集賢大学士、仍開府儀同三司・録軍国重事。未幾、以大宗正札魯忽赤出鎮北方、亦以清静為治、辺民按堵。泰定間還朝、加太保。及倒剌沙構兵上都、兵潰、伯答沙奉璽紱来上、文宗嘉之。拜太傅、仍

トゴン (ジャライル部)

突入、奪戦艦数艘、攻建康・太平等郡、下之。宋都統姜才攻揚子橋堡、脱歓率精兵出堡東逆之、斬殺幾尽、俄而宋軍復集堡北、遂奮撃走、追至揚州、殺傷甚衆。会万戸昔里罕入朝、道滁州、為宋兵所遮、撃敗宋兵、出昔里罕。従攻揚州、至泥湖、遇宋軍、奪三十餘艘、遂進兵蘇州、与宋軍戦、擒柳奉使」 ^ 『元史』巻133列伝20脱歓伝

ジャライル

ジャライル(英語:Jalairs、モンゴル語:Жалайр)は、かつてモンゴル高原を始め中央ユーラシアに分布した遊牧民族。古くからモンゴル帝国に仕え、その子孫の一部は14世紀に西アジアでジャライル朝を建設した。 古くはウイグル帝国に隷属してカラコルム近くにいたが、ウイ

ジャライル朝

ジャライル朝 جلايريان ジャライル朝の最大版図 ジャライル朝(ペルシア語 : جلايريان Jalāyīrīyān, 1336年 - 1432年)は、イルハン朝の解体後にイラン西部からイラクにかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配したモンゴル系のイスラーム王朝。ジャラーイル朝、ジャラーイール朝とも呼ばれる。

部

※一※ (名) (1)全体をいくつかに分けたそれぞれの部分。 「午前の~」「上(ジヨウ)の~にはいる」 (2)官庁・会社などの, 組織上の一区分。 普通, 課より大きく局より小さい。 「経理~」 (3)学校・会社などのクラブ活動やレクリエーションのための団体。 「図書~」 (4)歌集などで, 全体を区分けしたそれぞれの部分。 部立て。 「秋の~」 ※二※ (接尾) 助数詞。 書物・出版物などの数を表す。 分冊ものは一揃(ソロ)えで一部とする。 「初版一万~」「一~三冊」

部

⇒ べ(部)

部

大化前代, 大和政権に服属する官人・人民の集団に付せられた呼称。 五世紀末の渡来系技術者の品部(シナベ)への組織化に始まり, 旧来の官人組織である伴(トモ)を品部の組織に改編し, また王権の発展に伴って服属した地方首長の領有民や技術者集団, 中央豪族の領有民(部曲(カキベ))にも部を設定し, 王権に服属した民であることを示した。 部による支配方式を一般に部民制と呼び, 六世紀を通じて大和政権の基本的な支配構造となった。 部(トモ)。

田部 (部首)

「田」字は区画された農業の耕作地を意味し、4つの「口」は区切られた耕作地を、「十」は畦道の形を象る。 日本では特に、水を張って稲を栽培する稲田を指し、その他の耕作地を和製漢字の「畑」や「畠」に分けているが、本来は稲のみならず五穀を植えた耕作地はすべて「田」である。 偏旁の意符としては農耕や

服部 (品部)

機か、それ以前の道具を使ったと考えられる。ところが、6世紀の中頃の古墳から出土したものでは、筬が用いられたことが分かり、六朝時代の絹機や布機によって織り上げられたものだと思われる。 機織り機の進歩により生産性も良くなり、原始機

内部部局

内部部局(ないぶぶきょくく)とは、日本の行政機関において、府・省・庁・委員会の中に置かれる組織の細目の一つで、府省庁内の本体部分を構成する組織をいう。 内部部局とは、外局に対していうもので、府省庁によっては「内局」と略することもある。また、それぞれの外局も、その本体部分に内部

工部 (六部)

)(工部尚書)で、次官は侍郎(工部侍郎)である。 隋唐代に工部の下には建設と庶務を担当する工部、開墾を担当する屯田(とんでん)、山川を担当する虞部(ぐぶ)、水利事業を担当する水部(すいぶ)(中国語版)の4司が設けられ、各曹にはその長として判官である郎中(ろうじゅう)と員外郎(いんがいろう)(中国語版)とが置かれた。

支部 (部首)

「支」の字は枝・支える・枝分かれしたもの・計算する・十二支を意味する。また後起義として支払うなどの意味がある。 偏旁で意符として枝分かれしたものに関することがあるが、「シ」や「キ」といった音を表す音符として使われることが多い。 「十:十分な」+「又:手で」=「支」と言う二つの源字よりこの文字が形成された。